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◆表と裏◆

2:実力


◇Rufeir
 例の事件から数日過ぎて、野外訓練が始まった。春も過ぎて暖かくなると、この訓練が本格化する。
 内容は、学年によって違うらしい。あたしのところだと、今年でやっと偵察を教わるくらいだ。
 ただ今日は人数が足りないとかで、急遽上の学年の訓練に編入されたから、わりと本格的だ。
 もっとも実戦って、訓練とは桁違いだけど……。
「えっと、今日って、インドア?」
「らしいな。昨日先輩に聞いたら、そう言ってたぜ」
 ようするに屋内ってことなんだろうけど、じつはあたし、インドアはあんまり経験がない。
「イマドはやったこと……あるの?」
「二回だけ、まねごとならな。人数足りねぇって、去年の夏前に放り込まれてさ」
 なんかしょっちゅう、こういう人数調整はあるみたいだ。
「何、したの?」
「あんときゃただの、見張りだったからなぁ。つか下の学年が行ったって、そーゆー場所っきゃ回さねぇよ」
「そうなんだ」
 その辺は学院側も、ちゃんと考えてるらしい。
 イマドがわりと簡単に、いっしょに参加する話になったのも、これで分かった。経験があるなら話は別だ。
 ほんとうのことを言うと、最初はあたしは断った。けど学院が何度も頼んできて、最後に「イマドもいっしょに参加させる」と言ってきたから、OKしたのだ。
「学院って、野外は少ないの?」
「先輩の話じゃ、半々って感じだなー。まぁうちの先輩たち、けっこう警護とかの依頼、来るしな」
 たしかにシエラからの傭兵は、警備みたいなことまでこなすので有名だ。だからこの手の訓練も、よそと比べたらずっと多いんだろう。
 しかも今回は、ちゃんと上級生と組んでやることになっている。
 つまりただ単に突入するだけじゃなくて、上級生にとっては「どれだけ部下を上手く使えるか」、あたしたち下級生にとっては「上官の命令をどれだけ的確にこなせるか」まで、見られるってことだ。
「どの先輩と当たっかな」
「あたしに、聞かれても……」
 でも誰と組むかは、あたしもけっこう心配だった。世の中意外だけど、相性で物事が左右されることは、思ってるより多い。
 そうこうしているうちに、班分けの発表が始まった。
 次々と名前が呼ばれていく。
「俺ら最後だろな」
「そう、思う」
 そんな話をしてたら、ロア先輩を見つけた。向こうもあたしが分かったらしくて、手を振ってくれる。
「ロア先輩♪」
 急いで駆け寄った。先輩と一緒の班なら、何かとやり易くていい。
「よろしく、お願いします」
「それがさ、ルーフェイア……」
 けど先輩、なぜか困りきったような顔をする。
「あの、先輩?」
「あのね、キミの相手……。
――あれ」
 先輩が向こうを指差した。
 そして指差された人物が、振り向く。
「げ、マジかよ」
 イマドのひとことが、すべてを物語っていた。自分が青ざめるのがわかる。
 編んだ銀髪。眼鏡の奥の紅い瞳。
――どうしよう。
 あたし何日か前、この先輩に怒られたばかりだ。
「タシュア=リュウローンです。よろしくお願いします」
 タシュア先輩は、この間のことなど忘れているかのように挨拶をしてくる。
 もしかしたら本当に気にしていないのかもしれないけれど、その冷たい表情からは、何も読み取れなかった。
「あ……は、はい。こ……こちらこそ、よろしくお願いします……」
 声が震えないようにするだけで精一杯。
 けれこの先輩は、何事もなかったふうだ。
「ルーフェイア=グレイスとイマド=ザニエスですね? 六年生ですか」
「は、はい。人数が足りないとのことで、急遽……編入に、なりました」
 タシュア先輩が、納得したような顔をする。
――あたしが内心震え上がってること、気づいてるんだろうか?
 たぶん気づいてるだろう、根拠はないけどそう思う。
「まったく、学院もこんな形で数合わせをするくらいしか、能がないのですかね」
 このあいだのときと同じように、痛烈な言葉が飛ぶ。
「まぁ、ここで言っても仕方ありませんか。
 とりあえず訓練の開始は……24分後ですね。それまでに、大まかな状況を説明しておきましょうか?」
 なにがあっても変わりそうのない、冷然とした態度。
 先輩が見取り図を広げた。
「いいですか? これが突入する建物の簡単な見取り図です。あとは入ってから、逐次確認して行くしかありませんね。
 この建物の突入口は、だいたいこの三ヶ所。うち私たちが使うのは、ここです」
「あれ? 俺ら見張りじゃないんです?」
 イマドが平然と、先輩の説明に口を挟む。こういうところは、彼はすごかった。
「そのほうがよければ、そうしますが? 教官からの指示はありませんからね。何もしなくても、点数だけはもらえるでしょうし」
「え……」
 絶句する。
 もしかしてこの先輩、教官からも疎まれてる……んだろうか?
 何も言われないというのは一見よさそうだけど、こういう状況でのそれはつまり、何も期待していないし何もするな、という意味になる。
 加えて年下からの編入が二人、同じ班だ。
 数は合わせて形だけは整えて、あとは黙って隅に居ろということなんだろう。
「まー学院の考えることなんて、その程度だろうなぁ。けどこれで点がもらえるんなら、俺は別にいいけどな」
 イマドはさっさと割り切ったみたいだ。
「どうします?」
 あたしに問いかける先輩の瞳に、何かが閃いた。なんと言うか……そう、おもしろがっているような。
 少し考えて答える。
「あの、あたし……やってみたい、です」
 こういう訓練はあまりしたことないから、興味があった。
「あたし、インドアの訓練……ほとんど、やってなくて。だから……」
「なるほど」
 何かが腑に落ちたような感じを一瞬見せたあと、先輩は今度は、イマドのほうに問いかけた。
「あなたはどうなのです?」
「コイツがやるってなら、俺別に構いませんよ。もっとも俺じゃ、足引っ張んねーようにすんのが、せいぜいですけど」
 イマドのこういう、何でも言えるところは羨ましい。
「ではやりましょうか。教官が指示を出さないのですから、こちらが何をしてもいいわけですしね」
 なんかちょっとだけ、教官たちが気の毒な気がした。
 先輩がさっきの続きから、説明を始める。
「ここから突入した場合、敵側の拠点は恐らくここですから――最短経路はこれですね。まぁ、行けるとは限りませんが。
 そしてこのルートですが、最初の関門はおそらくここです」
 先輩の説明は、理路整然として的確だった。ルートや危険箇所が、次々と指摘されていく。
 恐ろしい人だけど……この先輩、すごく有能だ。付いていけさえすれば、最短でクリアできるだろう。
「ざっとですが、だいたいこんなところですね。何か質問は?」
「あ、あの」
 気後れしながら声を出す。
「あたし、さっき言ったとおり、インドア……あまり、してなくて。
 アウトドアと比べて……特に注意する点とか、ありますか?」
「そうですね。当然と言えば当然ですが、インドアの方がトラップを仕掛けやすいのと、待ち伏せが簡単です。これはよく注意してください。
 それから階段も要注意ですね。特にうっかり下から駆け上ろうとすると、狙い撃ちにされます。まぁ、やれば分かるとは思いますが。
――おや、そろそろ時間ですね。移動しましょうか?」
 よく分からないけれどこの先輩、足を引っ張るようなことをしたら、あっさり見捨てられそうな気がする。
 そんな無様なマネだけはしたくなかった。
 たぶん生まれて初めて、緊張しながら持ち場につく。
 深呼吸して頭の中を空にする。
 5秒前……4……3……2……1……。
 開始の合図が、辺りに響く。
 直後、いっしょに待機していた一チームがいきなり突っ込んだ。
「何やってんだ、あいつら」
 あんまりいろいろ気にしないイマドも、さすがにそんなことを言う。
 あたしも同感だった。何が待ちうけてるのかわからないのに、勢いに任せて突っ込むなんて、無謀もいいとこだ。戦場でそんなことをしたら、命が幾つあったって足りない。
 案の定仕掛けてあったトラップが発動して、光石――魔石に光の魔法を込めたもの――が発動した。ほんとうなら殺傷力のある爆薬や石が仕掛けられているところだけど、まさか訓練でそれは出来ないから、たいていこの石が代わりだ。
 ともかく、これで一チーム脱落。
「まったく。これだから無能な指揮官は困りますね」
 相変わらず冷たい声で、タシュア先輩が言う。
「ですが、無能な味方は敵より怖いと言いますし。丁度よかったのかもしれません。
 さて、行きましょうか」
 先輩、厳しい。
「あ、俺行きます」
 なんだかやけに気楽な調子で、イマドが建物の入り口へと近づいた。
 と、ふっと立ち止まる。
「こんなつまんないもん、仕掛けるなっての」
 妙に憤慨したような調子で言うと彼、ひょいとトラップを解除した。
――意外。
 しかもついでに、解除して手に入れた光石を、きっちり中へ投げ込んでいる。
 閃光。
「ふむ。意外にやりますね?」
 あくまでも冷静に、先輩は評した。でも確かにこれなら、斥候はイマドに任せた方がいいかもしれない。
 向こうでイマドが手を振った。入り口までは安全だ、ということらしい。
「行きますよ」
「あ、はい」
 慌てて先輩の後ろに続く。
「様子はどうですか?」
「すぐ中にいたチームはリタイアです。ただ、それ以上奥まではわかりません」
 ぴったりと壁に張り付いて、中の様子をうかがう。
「――平気よ。気配がするのは、上の階だから」
 気がつくとそう、あたしは口にしていた。
 また、先輩の瞳に一瞬、不思議な光が浮かぶ
 なぜかぞっとした。
 すべてを、見透かされているような気がする……。
 
 あたしたちのチームは順調だった。
 もっともこれは、イマドの力が大きい。意外なことに彼、トラップや鍵の解除に相当長けていた。なにしろツールを使って、思考石を使ったものまで解錠するのだ。
――でも、どこで覚えたんだろう?
 ともかく守備側が仕掛けたトラップを次々とイマドが解除し、そこをあたしとタシュア先輩が突破する形で、かなりの短時間でそうとう奥まで来ていた。
「恐らくこの階段の上の部屋が、守備側の拠点でしょうね」
「はい」
 それにしてもこの先輩、できる。
 単に強いというのではなくて、戦闘のコツを飲み込んでいるというんだろうか? 一種あたしの動きに似ているものがあった。
「さて、今度はどう行きますかね……おや」
「なんだ、やっと雑魚でもきたのか?」
 奥から声と共に出てきたのは、知らない先輩だった。でも確か、ロア先輩たちより年上で、上級傭兵の資格を持ってた気がする。
「ほら、出てこいよ。隠れてたって何にもならねえぞ」
 なんだか挑発してるらしい。けど当のタシュア先輩は、完全に無視だ。
 そしてあたしたちに背を向けたまま、話しかけた。
「しかたありませんね。とりあえず私が彼をおびきだします。
 その間に、あなた方はあの下級生2人を切り抜けて、場所を確保していただけますか?」
「場所を確保するだけでいいんですね?」
 いちおう、確認する。
「それで構いません。ここの奥はおそらく本丸ですから、全員で行く方がいいでしょう。
 場所を確保して待機。命令です」
「了解」
 あたしとイマドの声が小さく重なる。
「では行きますか。あまり気は進みませんが」
 そういって廊下の陰から、タシュア先輩が出た。
「ほぉ、おまえか。まともに訓練に参加するなんざ、点でもヤバくなったのか?
 だいいち、いつもこそこそ逃げてくヤツが俺の相手しようなんざ、10年早ぇな」
「別に逃げた覚えなどありませんよ。レベルの低い方とは、付き合いたくないだけです」
 こんどはタシュア先輩が挑発する。
 でもこれ、ほんとに意識してやってるんだろうか?
 まさか、無意識に言ってるなんてことは……。
「フン、ホネなしの割には言うじゃねぇか。もっともお前じゃどうやったって、俺様の相手には役不足だがな」
「おやおや、自ら格下と認めるとは随分と殊勝な心構えですね。それに免じて見逃して差し上げましょうか?」
 まるで教官が生徒に指摘するような、ある意味馬鹿にしているようにも聞こえる口調。
「誰が格下なんて言ったんだ? おまえの耳は節穴か?」
「自分の間違いにも気づかないとは、それでよく上級だなどと言えますね。言葉は正しく使わないと、恥の上塗りになるだけですよ。
 もっともあなたでは、いまさら塗るものもないかもしれませんが」
 相手の先輩が逆上する。
「てめぇっ!! ぶった切ってやる!!」
 一気に階下へ飛び降りてくる。
 でもタシュア先輩は、冷静なまま。ちょっと練習試合でもするような調子で、得物の両手剣――光をまったく反射しない、漆黒の刀身をしている――をすっと持ち上げただけだ。
 そしてあたしたちの方に視線を投げた。
 もちろん意味なんて、聞かなくても分かる。
 あたしとイマドは一瞬互いに視線を合わせると、守備側の死角になる位置から、階段の下へと動いた。
 一方でタシュア先輩は、ここから離れる方向へ、上手く相手の先輩を誘導していく。
 難関はこの階段。
「先に俺が」
 短く言って出たイマドを、とっさに防御魔法で援護する。けど何か魔法でも使ったのか、こんな狭い場所で彼の姿を見失った。
 敵側もそれは同じだったみたいで、大きな隙が出来る。
 これを逃す馬鹿はいない。あたしは一気に階段を駆け上がった。
 向こうが我に返って武器を構えたときには、あたしはもう肉薄していた。
 一閃。
 強烈な峰打ちを食らって、ひとり倒れる。けどそれは最後まで見ずに、あたしは身体を入れ替えた。
 後ろを取ったつもりでいたもう一人の先輩の長剣が、空を切る。
――あたしの後ろを取るなら、せめて気配くらいは消さないと。
 そして太刀をもう一度振るおうとした時、相手の動きが止まった。
 倒れた後ろには、イマドの姿。
「すごいこと……するね」
 まさか後ろから襲うとは、思わなかった。
「訓練だからって、気ぃ抜いてるヤツが悪いんじゃないか?」
 平然と言い放つ。
――イマドって思ってたより、凄い性格かも。
 でもとりあえずこれで、場所の確保はできた。
 あとはタシュア先輩が戻ってくるのを待つだけだけれど、いったいいつ頃……。
「綺麗に片付きましたね」
「――っ!!」
 真後ろから先輩の声がして、あたしは心臓が止まるほど驚いた。
「おや、どうしましたか?」
 また、タシュア先輩の瞳に光が閃く。まるで猫が、つかまえた鼠をおもちゃにするような……。
 ぞっとする。
 あたしだって戦場育ちだ。後ろを取られるのがどのくらい危険かは、骨身に染みて知っている。
 だいいちそういう環境で育ったから、あたしの後ろをとるのは傭兵の両親にだって出来ない。
――それなのに、この先輩は。
 もしこの先輩を敵にしたら、あたしは確実に死ぬだろう。
 寒気がした。
 
 結局訓練は、あたしたちのチームが守備側の拠点へ突入して終了した。
 とてもスムーズで、最短記録だったらしいから、教官も文句はつけられないだろう。
 終了のホイッスルが鳴り、自主解散になる。
「ではこれで――おや、下級生にはなにか伝達事項でもあるようですね」
「あ、俺行ってくるわ」
 先輩の言葉に、イマドが動いた。
 二人だけになる。
「そういえばあなたに、お礼を言わなくてはなりませんね。おかげで今日の課題は、ほぼパーフェクトでしたから。
――さすがに、戦場育ちというだけのことはあります」
「え?」
 一瞬耳を疑った。
 あたしが戦場で育ったのを知ってるなんて、この先輩いったい……?
 けど、次の言葉はもっと恐ろしいものだった。
「さすがは死神たるグレイス姓を、名乗るだけのことはありますね。
 いえ……ルーフェイア=グレイス=シュマー、とお呼びした方が正しいですか?」
 この一言に、あたしは凍り付く。
 本来誰も知るはずのない、「シュマー」の姓。これを学院内で知っているのは、学園長とロア先輩、それにイマドだけのはず。
 そしてそれ以上に、「グレイス」に込められた意味。これは学院では、あたし以外誰も知らない。
「……どうして、それを……?」
 ようやく出てきた問いに対して、タシュア先輩は冷たい笑みを浮かべた。
 抜き身のあたしに対して、タシュア先輩は剣に手さえかけていない。まるで動揺するあたしを、嘲笑するかのようだ。
 恐怖。
 普段は心の奥底へ抑えつけているはずのそれが、あたしの中に湧き上がってくる。
――かなわない。
 この先輩には、あらゆる意味で今のあたしでは、とても太刀打ち出来ない。
 太刀を握る手に汗がにじんだ。
 空気が張りつめる。
 けど、その緊張が破れることはなかった。
「おい、ルーフェイア、俺たちは集合だってさ」
 様子を見に行ってたイマドが、あたしを呼びに来る。
 そしてそれが合図だったかのように、すっと先輩は動いた。
「では、またいずれ。
――そうそう、背中には気をつけたほうがいいですよ?」
 それだけ言うと、何事もなかったかのように静かに、あたしのそばを通りすぎる。
 足音どころか気配さえない。
 でも。
(これ……?)
 そう、知ってる。
 あたしと同じ……『戦うために生み出された』者のもつ匂い。
 初めて他人から感じた死神の匂いに、またぞっとする。
 先輩の後ろ姿が遠ざかるのを見て、ようやく緊張が解けた。立っていられなくて、思わずそこへ座りこむ。
 まだ、身体の芯が凍り付いたままだ。
「なにかあったんだな?」
「あの先輩に……全部、知られた……と思う」
 やっとのことで、イマドにそれだけ答える。
「よりによって、タシュア先輩にかよ」
 彼の言葉は、まるで吐き捨てるような調子だった。
 でもあたしにも、なんとなく意味がわかる。よくは分からないけれど、おそらく学院内でいちばん、知られたらまずい相手だ。
 そして、はっと気づく。
「まさか、あの、追いかけてきた――?」
「追いかけ? 何の話だ?」
 例のことは知らないイマドが、不思議そうな顔をした。でもあたしの中で、はっきりと線がつながる。
 数日前あたしを追いかけてきた、“誰か”。あれほどの腕をした人間が、そうそう学内にいるとは思えない。
 そして、あたしの素性を知るタシュア先輩。
 二人が同一なのは、おそらく間違いないだろう。
 だとしたらあの先輩はもう、シュマーの中へ入り込んでる。自由に情報を、盗み出すところまできてる。
 証拠はない。ただの推測だ。でも先輩が言った言葉は、そうとでも考えないと、説明がつかなかった。
 もちろん他のどこかから、情報を手に入れた可能性はゼロじゃないけど……ゼロじゃないってだけで、限りなく低い。
 だからおそらく、シュマーそのものからだろう。
 吐き気がした。
 これほどの恐怖を感じたのは、もしかすると初めてかもしれない。
「だいじょぶか? かなり顔色悪りぃぞ」
「だいじょうぶ……だと、思う」
 そう言って、やっとの思いで立ち上がる。
 自分でも信じられないほど、足元が危なかった。
「歩けっか?」
「うん……どうにか」
 答えて、あたしはイマドといっしょに、集合場所へと歩き始めた。

「えぇ〜!よりによって、あいつに知られたわけ?!」
 部屋へ戻ってきたロア先輩に昼間のことを言うと、イマドとほとんど同じリアクションをした。
「やっぱり……まずいですか?」
「多分学院内じゃ、いちばんヤバい相手だね」
 それを聞いて、気が重くなる。もしこれで家になにかあったら、完全にあたしのせいだ。
 ともかくことの次第だけは連絡しようと、端末を立ち上げる。
 その時、ふと思いついた。
「ロア先輩、タシュア先輩のラストネーム、リュウローンですよね?」
「そだけど?」
 ロア先輩、タシュア先輩と同じクラスなだけあって即答する。
 リュウローン。その名にあたし、聞き覚えがあった。たしか、どこかの研究者と同じだ。
 その人はもう亡くなってて、でも子供向けに易しく書いたこの人の本を、読んだことがある。
 あと、研究にまつわるおかしな噂を、から聞いたことがあった。
 それがとても……気になる。
 それも踏まえてざっと経緯を書いたうえで、問い合わせ事項も付け加えて、伝言を魔視鏡から送ろうとした、その瞬間。
「だめっ、ルーフェ! そっち監視されてる!!」
「え……!」
 思わず驚いて、魔視鏡から手を離した。
 ロア先輩が隣の自分の機で、なにやら操作を始める。
「ったく、どこまで根性ひん曲がってんだか……あ、逃げられた!」
 先輩が悪態をつきながら立ちあがったけれど、あたしはもう聞いてなかった。
 身体が冷たくなる。
 怖い。
 まるで心臓を掴まれたみたいだ。
「ルーフェ?」
 あたしの様子に気がついたらしく、先輩が声をかけてくる。
 けど、答えることさえ出来ない。
 また吐き気がして、あたしは口元を抑えた。
「ちょ、ちょっと大丈夫? 気持ち悪い?!」
 先輩の慌てた声。
「立てる? こっち来て……ほら、いいから吐いちゃって」
 抱えられるように連れて行かれた洗面所で、あたしは吐いて倒れた。


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