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◆遠き風に願いし君は◆

written by こっこ

3:異変


◇Fia Side
 ふと、夜中に目が覚めた。
――何かが、来る。
 辺りは月明かりが照らし出していた。
 見慣れた天井。
 ここへ運ばれて来てから、どのくらいになっただろう? もうひと月近いだろうか?
 考えたことのないほどの、幸せ。
 だがそれは……今日までかもしれない。
 つ、と涙がこぼれた。
 何も要らなかった。今のままでじゅうぶんだった。なのになぜ、たったそれだけのことが、許されないのだろう?
 鎧戸の隙間から入り込む風が告げる。“それ”が来るのだと。
 同じベッドの中、隣にはニールの姿があった。
 自分が連れて来られてからしばらく、ニールは自分のベッドは明け渡して、その辺の床で寝ていた。
 だがどうしても1人で寝ているのが怖くて怖くて、動けるようになってからはつい彼の毛布に潜り込んでしまい、今は2人で一緒だ。
――こうやって隣でしがみついて、眠れるだけで良かったのに。
 なのに、それさえも……。
 ひとつため息をついて、彼をそっと揺り起こそうとして、驚く。
「なんだ、お前も目、覚めたのか」
 寝ぼけているのではない。ニールはもう、はっきりと目を覚ましていた。
「悪りぃけど、起きて支度してくれっか? 俺、姉貴起こして――」
 言いかけた言葉が途切れたのは、姉のイルゼが部屋に姿を見せたからだ。
「ニール、起きてる?」
 彼女はもう、すぐにでも出かけられる格好だった。
「――姉貴さすがだな。
 フィアももう起きてっから、すぐ動けると思う」
「良かった。貴重品まとめておいたから、半分持っててね。あたし、おばさん起こしてくるから」
 誰も、どうして、などと訊かない。
 訊く必要などなかった。それはもう……すぐそこだ。
 悪しきもの。忌むべきもの。
 逃げた方がいい、そう本能が告げている。
「どうせ荷物なんて、大してねーしなぁ。鍋惜しいけど。
 あーフィア、これ持つか? お守りにしかなんねーかもだけど」
 そう言って彼が差し出したのは、きれいな装飾が施された短刀だった。
 確かに、お守りにしかならないかもしれない。
「刃見せるだけでさ、ビビるヤツけっこーいるし。
 つか、俺から絶対離れんなよ? はぐれたら最後、何されっかわかんねーから」
「……うん」
 答えながらフィアは、違うことを恐れていた。
――何かが、自分の中で牙をむこうとしている。
 仮面を投げ捨て、本来の姿を現そうとしている。
 自分が何者なのか分からない恐怖。
 あのまま助からず、路地裏で朽ちたほうが良かったかもしれない。一瞬浮かんだそんな思いを、フィアは振り払った。
 目の前に立つ、彼を見上げる。
「どした?」
「ううん……なんでも、ない」
 それはただの、偶然だったのだろう。ほんの少し何かが違えば、あの路地裏で出会うことさえなかったはずだ。
 けど奇跡は起こり、自分はいまこうしている。
――それなら。
 これから何が起こるか、フィアは漠然とだが感じ取っていた。
 ああ見えてニールは、剣が使える。深夜や早朝、剣の稽古をしているのを、フィアは知っていた。「離れるな」という言葉は嘘ではない。
 だがそれでも、対処しきれないだろう。来るのは……そういうものだ。
 だからフィアは自分に誓う。この内なる恐ろしいものを、彼を守るために使おうと。
 隣が騒がしくなって、お姉さんが部屋へ戻ってきた。
「一応起こしたんだけど、おばさんまだ時間がかかりそうね……。何がどうなってるのか分からないから、仕方ないんだけど」
「――俺、ちっと行って説明してくる」
 入れ替わりにニールが出て行き、女性2人が残された。
「フィアちゃん、急に起こして悪かったけど、大丈夫?」
「あ、はい。目が覚めてましたから……」
 あら、と彼女が小さく声をあげた。
「すごいわね、ちゃんと気がつくなんて。
 でもこれからが本番だから、気をつけてね」
「はい」
 隣からは、まだ動く気配が感じられない。
 危ない、と思った。本当にもう、時間がない。同じ事を感じているのだろう、イルゼも焦り始める。
「まったくもう、2人とも何やってるのかしら」
 と、外でどぉんと言う何かが爆発したような音と、たくさんの悲鳴とが上がった。
「来た、ってワケね」
 ひ弱で線が細いとばかり思っていたイルゼの雰囲気が、一変する。それまでまどろんでいた野生の肉食獣が、目を覚ましたようだった。
 病弱ゆえに体力は続かないだろうが、その点は子供のフィアも同じだ。だがどちらも、見かけに騙されて手を出せば、痛い目に遭うだろう。
 2人の視線が交錯して、互いに相手が助けを必要としないことを確認する。
「にしても、遅いわね。これじゃ逃げ遅れかねないじゃない」
 気が急いて待ちきれなくなったころ、ようやく隣でドアの開く音がした。
 こちらもすぐに外へ出る。
 抜け目のない表情を見せるニールと、大変なことが起こったことだけは理解したらしい、怯えた隣人とがいた。
「姉貴、どこ回る?」
「先生のところしかないと思うけど」
 先生と言うのは、あのいつも来ている医者の先生だろう。ここからは遠くないらしいが、フィアは実際に行った事はなかった。
「やっべ、来てる。行くぞ」
 ニールに手を引かれて階段を駆け下りる。
――阿鼻叫喚。
 一目見て凶暴さが分かる大きな魔物たちが、貧民街のそこかしこで暴れていた。
「マジやべぇな……」
 逃げ惑う人々。
 片手で幼子の手を引き、もう片方の手に赤ん坊を抱いた母親を、格好の獲物と見たのだろう。一気に魔物が迫った。
 かぎ爪が振り上げられる。
 だがそれが振り下ろされるよりまだ早く、風のようにフィアが間に割って入った。
 残像のように、ふわりと舞う長い髪。透き通った瞳が、魔物を睨みつける。
 瞬間、魔物の振り上げられた腕が、音を立てて弾けとんだ。
 苦しげな咆哮。
 魔物の血走った目が、母子からフィアへ移る。
 だが彼女は全く怯まず、華奢な手を魔物に向けてかざした。
 金属の触れ合うような、不思議な音。
 辺りの気温が一気に下がる。虚空から何本もの氷の槍が現れ、魔物へと飛ぶ。
 声にさえならない絶叫。
 天へ憎しみを吼えようとした姿のまま、魔物が瞬時に氷像となる。
 魔物の足をフィアが蹴ると、巨体は傾いて地に落ち、澄んだ音を立てて砕け散った。
「すごいわね、やるじゃない」
 イルゼが感嘆の声を上げる。
「俺らの方が、足ひっぱりそうだな」
 ニールも苦笑した。
 その反応に、フィアはほっとする。
 考えるより先に身体が動き、魔法を繰り出し、敵を屠る。
 屈強な戦士ならともかく、自分のような子供がそんなことをしたら、いったいどう見えるか。それをフィアは承知していた。
 なのに思わぬ事態でとっさに動いてしまい、内心びくびくしていたのだ。
 嫌がられるのではないか、と。
 何をつまらないことを、という人もいるだろう。だがフィアは、それが怖かった。
 あの思い出すのも嫌な場所でならまだともかく、やっと見つけた居場所を失くしたくなかった。
 それが杞憂に終わったことに、心の底から安心する。
「さ、お母さん早く。ほら、おばさんも!」
 イルゼが幼児を抱き上げ、茫然自失の母親と隣人とを急かす。
「行きましょ、こっち」
 促されて小走りに移動を始めたあとは、早かった。可能な限り敵をやり過ごし、襲われればフィアとニールとが手早く倒す。
 どうやら人も魔物も町の中心部、貧民街と本来の町とを隔てる城壁の方へ向かっているようで、郊外へ向かう一行が出会う数は進むにつれ減っていった。最初に、一番外側からやられたせいだろう。
 この調子では城壁周辺は地獄絵図だろうが、まさか戻って助けるわけにもいかなかった。
 そのまま町を出て、ニールに導かれて近くの丘へ急ぐ。
「もう、ほとんどいないみたいね」
「だな」
 人が大して居ないせいなのか、偶然狙われなかっただけなのか。ともかく見上げる丘の上――大した高さはないが――の屋敷は血なまぐささとは無縁で、静かなままだった。
「ここがだいじょぶで良かったぜ」
 麓にある錆び付いた門をくぐりながら、ニールがつぶやく。
「……良かったって、大丈夫じゃなかったらどうするつもりだったのよ」
「ンなこと言ったって、姉貴が先に言ったんじゃねーか」
 些細な姉弟の言い合いを、別の声が押しとどめた。
「イルゼとニールかい?」
 聞き慣れた、ドクターの声だ。
「無事で良かった、ここから町を見て心配していたんだ」
 屋敷と同じで、彼も何事もなかったようだった。
「街は……やっぱりひどいのかい?」
「――ええ」
 ドクターの問いに、短くニールが答える。
「そうか……」
 僅かな間視線を落とした後、ドクターは顔を上げて軽く微笑んだ。
「とりあえず、屋敷へ行こう。疲れてるだろう?」
 言いながら丘の上へ続く道を、たどり始める。
 辺りは暗くて今ひとつ見えないが、どういうわけか庭園ではなく、畑のようだった。案外ここで、自給自足の生活をしているのかもしれない。
 ドクターが長い長い坂を上って、一行を屋敷へと先導する。
「ボロ屋敷だが、外よりはマシだろうしね」
 館は確かにやたらと古びていて、幽霊屋敷さながらだ。
 だが貴族の住まいなだけあって広いし、痛んでいるとは言え貧民街よりはずっと立派だった。
「にしてもここ、よくヘーキでしたね」
 ニールが不思議そうに言うと、ドクターが笑いながら肩をすくめた。
「度を越した心配性のご先祖が居てね、莫大なお金をかけて、土地ぜんぶに強力な結界を施したんだそうだ。
 まぁおかげで助かったんだから、今度からよく敬わないとだが」
 嘘から真、という話らしい。
「ロクなお茶もないが、飲んでゆっくり休むといいよ。
 僕のほうはじき、忙しくなってお茶を淹れる間もなくなるだろうしね」
 確かに魔物の襲撃が一段落すれば、ここは怪我人であふれ返るだろう。
 そんな話をしながら、一行が屋敷の中へ入ろうとした時。
 悪寒を覚えて、フィアは立ち止まった。
 振り返る。
「どした?」
 気づいたニールの声に、他の面々も足を止める。
「月、が……」
「月?」
 振り仰いだ空には、気味の悪いほどに緋い月。
「なんだ?」
「月に、橋……」
 うわごとのように、フィアの口から言葉が漏れる。
「橋? なんだそりゃ?」
「聞いたことがあるな……」
 ドクターが腕を組んで考え込んだ。
「たしか100年に一度、月と地上のあいだに橋がかかって、それを渡って魔物が地上へ落ちてくるって話だったと思うんだが」
「それ、シャレになんないですよ……」
 そんな会話を続ける一行の視線の先で、天空から伸びた霞む何かと、地上から伸びたものとが繋ぎ合わさっていく。
「どう、なるのかしら」
 イルゼがつぶやく。
 これから何かとてつもなく大変なことが起こるのは分かるが、それがどんなものか、誰にも想像がつかなかった。

◇Neil
「おーい、あがっていいぞー」
 下のほうから親方のデカい声がする。
「あ、はいー」
 答えて俺は荷物の山から降りた。
 あれから数日。あの橋とやらは今んとこ、それ以上何もない。
――夜は不気味だけど。
 月が昇ってくると、ぼんやりした橋が夜空に見える。
 でもそれだけだし、そんなことより食うほうが先だから、俺初めみんなどっか働き口見つけて働いてる。
 街は、マジでヒドかった。
 聞いた話じゃ俺らが抜け出した後、かなりヤバいことになったらしい。魔物と炎とに追われた連中が市街への城門へ押し寄せたけど、市民連中が門を開けるわけない。
 けっきょく最後は魔物が門を破って中まで入っちまった――ザマみろってんだ――らしいけど、そいつらが通り過ぎた後は死体の山だったっていう。
 貧民外で助かったのは桁外れに運が良かった連中と、どうにか港方向へ逃れられた連中、後は俺らみたいにいち早く街を捨てたヤツだけだった。
 焼け落ちた街の中を通って、港へ向かう。
 市場のあった広場は今、家なくした連中の住み場所になってて、物の売り買いとか出来ない。
 ただ逞しいもんで、ほとんど無傷だった港には翌日から船が出入りしてるから、そこでみんな働いたり売り買いしてた。どうにか難を逃れて、先生の屋敷に身を寄せた連中も、ほとんどが港で働きだしてる。
 ヤな言い方だけど、貧民街の被害が大きかったせいで、港とかの荷運びはワケわかんねーほどの人不足だ。だから五体満足で働けるヤツは、いくらでも働き口があった。
「親方〜?」
「おう、来たか。
――嬢ちゃんも偉ぇなぁ。あんまムリしねーでいいかんな? 途中でもなんでも終わりにするんだぞ?」
 親方、その猫なで声ヤメてくれ。鳥肌立つ。
「えっと、あの、大丈夫です……」
 律儀に答えるこいつもこいつだし。
 この親方、あの晩はとうとう最後まで気がつかなかったっつーからスゴすぎる。酒かっくらって船の上で寝てたらしいけど、朝ンなったら街が丸焼けで、酔いがいっぺんで醒めたってた。
 おかみさん――こないだフィアが助けた人だ――の方も、あの晩は運良く隣町の親戚の家に行ってたとかで、夫婦そろって難逃れしたっていう。
 ンで翌日俺が顔を出したら、この騒ぎで同業が死んじまったって嘆きながら、港の荷降ろし作業を一手に引き受けてた。
 当たり前ってや当たり前だけど、その場で俺も捕まって働かされたし。
 オマケで、一緒に来てたフィアまで捕まった。
――自分でわざわざ捕まった、っても言うだろうけど。
 荷の計算してたヤツもあの晩亡くなっちまったらしくて、親方が困った困った言ってたら、フィアが自分から名乗り出ちまった。
 ってもこいつのことだから、下向いて消えそうな声で、「簡単な計算なら出来る」って言っただけだけど。
 どっちしても、計算がちゃんと出来るヤツってのは数が少ないから、その場で親方に雇われた。
「おーい、フィア、テキトーなとこで終わりにして帰んねーと」
「あ、うん」
 律儀なフィアを、仕事から引き剥がしにかかる。
「ずっとやってるとキリねーし、みんなの帰りも遅くなっちまうぞ?」
「あ……!」
 どんな時でも他人優先のフィアには、この手の説得がかなり効く。
「そうだぞ嬢ちゃん。
 どうせ嬢ちゃんのことだから、仕事自体は終わってんだろ? ほら、暗くならんうちに帰んな」
 だから親方その猫なで声、気色悪りぃってば。
 ともかくフィアが手を止めて、どうにか帰る体制になった。
「ほれ、今日の働き賃だ。
 ほら嬢ちゃん、小遣いもあげような。あと、土産ももってくといい」
 だ、だから親方ぁ……。
「ニール……?」
 親方の猫なで声にアテられて脱力した俺を、フィアの碧い瞳が覗き込んだ。
「だいじょうぶ?」
「あ、へーきへーき、気にすんなって」
 大丈夫じゃないとか、言えるワケねーし。
「さ、今度こそ帰るぞ」
「うん」
 フィアと連れ立って、壊滅しまくった街を抜ける。行き先は当たり前だけど、ドクターの屋敷だ。
 時間が合わなかったのか、屋敷から来てる他の連中の姿は見えなかった。
 丘へ続く道を、並んで歩く。
「お〜い」
「あ、ドクター」
 麓の門の辺りで、ドクターと姉貴とに出くわした。
「仕事、いいんですか?」
「いやぁ、さすがに疲れてね。迎えを兼ねて散歩さ」
 今、屋敷は怪我人だらけだ。
 なんせあの騒ぎだったし、しかも普通の医者は貧乏人なんぞ診やしない。
――つか、診てもらっても金払えねーし。
 そんなわけで、運良くここまでたどり着けた怪我人で、屋敷はあふれてる。
 もちろん一緒に逃げた隣のおばさんとか付き添いとかが手伝ってるけど、治療は一手に引き受けてるわけだから、ドクターの仕事ったら半端じゃないはずだ。
 で、抜け出してきたってことらしい。
 姉貴はまぁ……よーするにオマケでついてきたんだろう。
「仕事はどんな感じ?」
「ちっと忙しいけど、いつもどおりだからな〜」
 答えたら睨まれた。
「あなたに訊いてないわよ。
――フィアちゃん、疲れてない?」
 姉貴ひでぇ。
 けどだからって、ストレートに怒れないのも辛いとこだ。フィアが気にするし、つかこいつが大事にされるの、俺も嬉しかったりするし。
「さ、1日分の話があるのは分かるけど、戻ったほうがいい。話は歩きながらでも出来るしね」
 ドクターに促されて、みんなで歩き出す。例の屋敷は丘の上だから、延々上り坂だ。
「ドクター、今度はもっと平らなとこに家建てたらどうです?」
「そうだねぇ。だが、眺めはいいんだよ?」
 くっだらない話しながら歩いてく。ただドクターの言うとおり、半分過ぎた辺りから、眺めは抜群に良かった。
 さっきまで厚かった雲が切れてきて、薄布みたくなる。それが沈んだ陽の残りに、うっすら照らされてた。
 広がる薄紫の空と、紫紺の海。
「海だけ見てると、なーんもなかったっぽいのにな」
「そうよね……」
 そのとき、フィアが小さく声を上げた。
「どした?」
「あれ……」
 フィアが指差す。俺らが見てたのとは違う、もちょっと夜に近い南の空だ。
「あれがどした?」
 暗くなりかけた空にうっすら、あの夜からの橋が見える。
 気になることは気になるけど、まぁいつもの話だ。
 けど、それをドクターがさえぎった。
「待て、様子がおかしいぞ」
 呆然と見てるうち、橋が縮まって光りだす。流れ星っぽくも見えた。
「なんかこっち……来てない?」
「――来てっかも」
 早い話、流れ星がこっちに向かって落ちてくるみたいな状態だ。
 しかもだんだん、真っ赤な火の玉になってく。
「なんかこれ、ヤバく……ねぇ?」
「まずいだろうねぇ」
 なんでドクター、ンなに落ち着いてんですか。
「これってやっぱ、逃げたほうがいいんじゃ?」
「そりゃ逃げたほうがいいだろうけど、でも、いまさらどこへ? すぐ来ると思うんだけど」
 姉貴も落ち着きすぎだろ。
 そんなアホなこと言ってる間に、燃える“それ”がどんどん落ちてくる。
「あー、あれなら海かな、行き先は」
 だからドクター、なんでそんなに平然と……いや、海ならいいけど。
「海なら、別になんでもないのかしら?」
「どうだろうねぇ。あれがどのくらいか分からないけど、さすがに何も無しじゃ済まなそうなんだが」
 また物騒なことをドクターが言う。
「お魚、だいじょぶかしら?」
 魚の心配してる場合かよ。
 そして、閃光。
 沖に巨大な火柱が上がった。
「すげぇ……」
 これしか言いようがない。
 と、ふわりとフィアが前へ出た。
 重さを全く感じさせない、風のような動き。
「フィア?」
 海を見据えたまま、こいつが何かを口にする。
 きぃん、という耳鳴りに似た音を立てて、俺らの周りの空間が軋んだ。
「何やったんだ?」
 答えはない。
 不思議に思いながらも、そのまま火柱を見続ける。
「え……?」
 気が付いたときには遅かった。なんか靄っぽいものが見えたと思った瞬間、街が瓦礫になって舞い上がる。
 ほとんど同時に周りの草がちぎれて吹き飛んで、木が何本か根こそぎ倒れた。
 それから届く轟音。
 ただ、俺らの周りは風さえなかった。
 よく見ると、いろんな破片が見えない壁みたいのに、弾かれてるのが見える。
――フィア。
 それしか考え付かなかった。
 こいつがいち早く、なんか手を打ったんだろう。じゃなきゃ今頃、俺らも吹き飛んでたはずだ。
 そのうちやっと、風が収まる。
「館、だいじょぶかしら?」
「うーん、ボロだからねぇ。ちょっと自信がないな」
 あんまり心配してなさそうな顔で、ドクターが言う。
 と、フィアが前へ出た。
「フィア、どした?」
 俺らの言葉は無視して、こいつが宙へと浮く。
「お、おい?!」
 何か言いたそうな、どっか痛そうな表情で一瞬だけ振り返って、次の瞬間フィアは文字通り飛翔した。
 姿がたちまち闇にまぎれて、見えなくなる。
 飛び去った方向は、海だ。
「どういう、こと……?」
 姉貴が呆然とつぶやく。
 けど俺も、何がどうなってるのかさっぱりだ。
 ただみんなで、フィアが飛び去った方向――遥か沖を見つめる。
 その沖に、白い線が引かれた。
「――なんだ、あれ?」
 この街へ来てから海はずっと見てるけど、こういうのは初めてだ。
「あれは――!」
 気が付いたドクターが、血相変えた。
「津波だ!」
「津波……?!」
 見るのは初めてだけど、話に聞いたことはある。
 でもそれ、地震の時とかだったような……。
 考え込みながら眺めてる間に、線は信じらんないスピードで近づいてきて、たちまち湾に差し掛かって高さを増した。
「あれじゃ、街が!」
 ただでさえ爆風で半壊してんのに、あんな壁みたいなもんが来たら、全部流されるのは確実だ。
 けど、どうしようもない。絶対っていいくらいなんも出来ない。つか、もしかしたらここだってヤバい。
 歯噛みしながら、波が押し寄せるのを見つめる。
 けど。
「うそ、でしょ……」
 遠く聞こえる姉貴の声。
 津波が、全部じゃないけど消えた。

◇Fia
 分かっていた。
 あの夜、魔物が町を襲ったときから、逃れられない災厄が起こると感じていた。
 それが、来る。
「なんかこれ、ヤバく……ねぇ?」
「まずいだろうねぇ」
 どこかちぐはぐな調子で続く会話を背に、フィアは自分の中へ意識を向ける。
「これってやっぱ、逃げたほうがいいんじゃ?」
「逃げたほうがいいと思うけど、でも、いまさらどこへ? すぐ来るんじゃない?」
――この人たちを、死なせたくない。だから。
 何かが止めたが、構う気はなかった。
 力は、ある。
「あー、あれなら海かな、行き先は」
「海なら、別になんでもないのかしら?」
「どうだろうねぇ。あれがどのくらいか分からないけど、さすがに何も無しじゃ済まなそうなんだが」
 使ったことはない。
 だが、使い方は分かる。
 力を汲み上げて、形にする。
 閃光。
 遠い海に文字通りの火柱が立つ。
「すげぇ……」
 ニールの声を聞きながら、前へ出た。
 海を見据えたまま、知らないはずの呪を口ずさむ。
 きぃん、という耳鳴りに似た音を立てて、周りの空間が軋んだ。
「何やったんだ?」
 聞かれたが、フィアには答えられない。そもそも、どう説明すればいいのか分からない。
 分かるのは、これが必要だということだけだ。
 “それ”が、来る。
 風が揺らぐ。
 次の瞬間、街が瓦礫になって――そして一部の人も――空へ舞い上がった。
 海を渡ってきた衝撃波が襲ったのだと気づいたのは、どのくらいいただろう?
 張った魔法の盾の外側を、暴風が荒れ狂う。草が千切れ飛び、枝が折れ、木もなぎ倒された。
 しばらくの間それは続いて……やっと、収まる。
 だが、これで終わりではない。
 魔法の盾を解きながら、フィアはさらに前へ出る。
「フィア、どした?」
 心配そうな言葉には答えず、少女は虚空へ――踏み出す。
 軽々と舞い上がる身体。
「お、おい?!」
 ニールの声に、一度だけ振り向く。
 なんと答えたらいいか分からず、言葉にはならなかった。
 涙がこぼれて、それをこらえながら、海の上を翔ける。
――こんなこと、したくない。きっと怖がられて嫌われる。
 それがフィアの思いだった。
 だがやらなければ、全員死ぬだろう。
 だから……。
 沖に引かれた白い線が、近づいてくる。
 立ちはだかるには、フィアはあまりにも小さい。
 だが。
 己の裡から呼ぶ。
 力の源、巣くう物。
 同化していくのが分かる。
 あとは簡単だった。
 押し寄せる津波から力を引き抜いて、湾の入り口に防壁を張り、さらにエネルギーの流れも固定化する。
 手の振りも呪文も要らない。視線だけで、粘土を捏ねるより簡単だ。
 突然進む力を失くした波が、崩れ落ちて渦を巻く。
 けどそれさえも吸収されて変換されて、自らの力で作り出された見えない壁を、ただ洗うだけだった。
 それを眺めながら、防壁をチェックする。
――夜中まで、かな。
 状況からそう判断する。
 急ごしらえのため、ずっとは持たない。だがこれだけ持てば、大丈夫だろう。
 そう思った瞬間、フィアはめまいを感じた。これだけのことを一気に、しかも初めてやったのだから、当然といえば当然だ。
 どこか安全な場所に、そう思って辺りを見回して、思い出す。
 ここは、虚空だ、ということに。
 降りよう、と思う。どこかへ。
 本当はニールのところへ戻りたいのが、彼の顔を見るのが、フィアは怖かった。
 もし、恐れられて嫌われてたら? 
 行かなかったからといって、嫌われなかったことにはならない。だが、行かなければ見ないですむ。
 いちばん安全な場所はこの辺りでは、ドクター先生の館がある丘だと分かっていたが、フィアはもっと手前の町の外に降りた。
 身体が重くて立ってられず、道端にうずくまる。
 ここじゃ危ない、そう思いながらも、フィアはもう動けなかった。
 ニールは無事だ。それだけは間違いない。
 意識が、暗闇に堕ちていく。
 ニールに、会いたかった。そう思いながら。
「おい、こんなとこで寝たらダメだろ!」
 とつぜん、耳元で響いた声にはっとする。
 やっとの思いで目を開けると、いちばん見たかった姿があった。
「ムチャ、したんだろ」
 まっすぐ顔を見られなくて、フィアは視線をそらす。
「先生が言うには、この調子ならとりあえず、とりあえず津波はだいじょぶだろってさ。
 さ、帰ろうぜ」
 動けない少女を、少年が背負う。
 不思議なくらいの暖かさを、フィアは感じた。


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